2018年5月7日月曜日

貯蔵土坑と竪穴住居との関係

大膳野南貝塚後期集落 土坑の再検討 37

時期別に貯蔵土坑と竪穴住居との関係を分析しました。
ただし貯蔵土坑のデータは詳細時期は称名寺式期、堀之内1式期、加曽利B2式期だけしかありません。その他の時期のデータは「堀之内式期」「後期」「不明(縄文時代)」などの中に含まれていると考えられます。
従って詳細時期を通覧して検討することはできません。
データの多い称名寺式期と堀之内1式期の検討がメインになります。

1 称名寺式期

称名寺式期貯蔵土坑
貯蔵土坑が調査域南西隅に集中し、かつその場所は主な竪穴住居から離れていることが大変特徴です。
このような特徴はその後の堀之内1式期ではみられません。
この特徴は前期集落の竪穴住居と土坑分布の関係と似ているように考えます。

前期集落土坑
前期集落土坑のうち南西域に集中している土坑のほとんどはオニクルミ核などが出土し貯蔵土坑であると考えられています。その場所から竪穴住居は離れています。
前期集落では集落内土地利用区分が行われ、竪穴住居域と貯蔵土坑群とは別の場所にゾーニングされていたと考えました。その理由として衛生上の環境維持などがあると考察しました。

称名寺式期貯蔵土坑の集中立地も同じように土地利用ゾーニングの思考があり、前期集落と似た場所に貯蔵土坑が作られたと考えます。その理由はやはり衛生環境保持であったと想像します。

2 堀之内1式期

堀之内1式期貯蔵土坑
堀之内1式期は集落最盛期です。この図に表現されている土坑及び竪穴住居は堀之内1式期として特定されたデータだであり、「堀之内式期」「後期」「不明(縄文時代)」などとして把握されたデータの多くが堀之内1式期のものであると考えます。
そこで堀之内1式期のデータを含む「堀之内式期」土坑図と後期集落全部のデータを含む「後期」土坑図を作成してみました。

堀之内式期土坑

後期土坑
後期土坑のデータは後期集落発掘データの全てが含まれ、かつ集落最盛期である堀之内1式期の状況と近似していると考えることができます。
そのデータの様子から、堀之内1式期の検討を後期全期データで行ってみました。

検討では後期土坑の図から想像できる状況を作業仮説としてまとめました。

大膳野南貝塚 後期集落 貯蔵土坑に関する作業仮説
●後期全期の土坑と竪穴住居分布が堀之内1式期(集落最盛期)の実勢と近似していると想定できる。
●3つの貝層(南貝層、北貝層、西貝層)に対応した3つの家族集団が存在したと想定できる。
●3つの家族集団はそれぞれ超大型(容積2㎥以上)貯蔵土坑を所持していたと想定する。(集団全体の食糧管理用、2基づつあるのは建て替えの結果で、同時運用は1基であると想定する。)
●3家族集団の超大型貯蔵土坑の位置はそれぞれの集団が利用していた堅果類採集テリトリーに近い場所であると想定する。
●3家族集団は大型(容積1㎥以上2㎥未満)や中小型土坑(容積1㎥未満)も親族・家族単位で所持していて、その場所は竪穴住居に近い場所であったと想定する。
●集団全体の食糧管理(超大型土坑)と親族・家族単位の食糧管理(大型、中小型土坑)が併存していたのは食糧不足時の相互融通(食糧配布の平等性)のためであった可能性がある。(超大型土坑建設は家族集団としてのリスク管理行為であった可能性がある。)

超大型土坑の位置は3家族集団の食糧採集テリトリーを次のように空想すると合理的に説明できます。

3家族集団の食糧採集テリトリーの空想

3 加曽利B2式期

加曽利B2式期貯蔵土坑
2つの竪穴住居の中間に位置するように観察できます。


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