2017年8月28日月曜日

集落外縁帯に1集落1カ所立地する土器塚の意味 土器塚学習7

図書「千葉県の歴史 資料編 考古4 (遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)の「土器塚」の項の学習の一環として文献「阿部芳郎(2012):縄文後期の集落と土器塚-「遠部台型土器塚」の形成と加曽利B式期の地域社会-、人類史と時間情報~「過去」の形成過程と先史考古学~(雄山閣)」を学習しました。

人類史と時間情報~「過去」の形成過程と先史考古学~(雄山閣) 箱

土器塚と西根遺跡の出自を考える上で多くの知識とヒントを得ることができましたのでメモしておきます。

1 集落外縁帯に1集落1カ所立地する土器塚
この文献では1新貝塚と「米沢村の土器塚」、2佐倉市遠部台遺跡の土器塚、3江原台遺跡(曲輪ノ内貝塚)の土器塚、4吉見台遺跡の土器塚、5井野長割遺跡の土器塚について事例を検討しています。

印旛沼南岸の後晩期集落
「阿部芳郎(2012):縄文後期の集落と土器塚-「遠部台型土器塚」の形成と加曽利B式期の地域社会-、人類史と時間情報~「過去」の形成過程と先史考古学~(雄山閣)」から引用

そして、次のような興味ある分析を行っています。
土器塚が谷奥型環状遺丘集落を構成する単位と目されるマウンドに付随して形成された井野長割遺跡を代表例として、遠部台型土器塚のすべてが環状構造の外縁帯に付随するようにして、1集落に1ヵ所のみが形成されるという規範は、土器塚を遺跡形成との関わりで考える際に見事に一致している重要な事実である。筆者はこれらのマウンドは、継続的な居住活動の累積の結果に形成された居住集団の単位的な生活痕跡の累積と考えている(阿部ほか2004)。したがって、土器塚の形成は集落構成員のなかでも、とくに限定された居住集団によって維持管理されていたものと考えたい。甲野勇がかつて想定した「土器作りのムラ」とも関係するが、土器という容器製作を統制する特定集団の存在を、土器塚に近接した遺丘を形成した集団が担った可能性を指摘したいのである。
「阿部芳郎(2012):縄文後期の集落と土器塚-「遠部台型土器塚」の形成と加曽利B式期の地域社会-、人類史と時間情報~「過去」の形成過程と先史考古学~(雄山閣)」から引用

1集落1カ所の土器塚分布から、土器塚を維持管理したのが土器づくりに関わる集落内特定集団であると考察しています。
私は集落リーダー家族(集団)がアク抜き技術ソフトとそれに使う土器づくりハードを担っていたと学習してきましたから、上記考察は学習結果とよく整合します。
2017.08.27記事「土器破壊の意味…収穫祭 土器塚学習6」参照

さて、この図書では何故土器塚が作られたのか、土器塚とはそもそも何者であるのか、一切説明がありません。
考古論文・資料を読んでいていつもぶつかる不思議にこの図書でもぶつかりました。
著者にそのイメージが無いはずはありませんが、不確かなことを書くことは科学ではないということだと思います。

私は上記記事で、土器破壊は主食確保を祝う収穫祭における丁寧な道具送りであると考えました。
土器塚が収穫祭の跡を示す遺構であるとすれば、それが集落1カ所に限定されその主催者が集落リーダー家族であることは当然です。

さて、私が次に興味を持つのは集落外延帯に土器塚が立地するという特性ですので、交通との関係から次項で検討します。

2 集落外縁帯立地と交通との関係
土器塚がどこでも集落外縁帯に立地している意味はこの図書では記述されていません。
また、土器塚が道路と深いつながりがあることも述べられていません。
しかし、大きな意味がその位置と道路存在に隠されていると考えます。

2-1 遠部台遺跡土器塚の集落立地位置と道路
以前の記事で遠部台遺跡土器塚が交通と深いかかわりがることを考察しました。

「図10 遠部台遺跡地形測量図(阿部他2000b)」書き込み図
原図は「阿部芳郎(2002):縄文土器の集中保有化現象と遺跡形成に関する研究、明治大学人文科学研究所紀要 第50冊1-34」から引用
2017.08.24記事「印旛沼舟運と土器塚 土器塚学習4」参照

さらに、「千葉県の歴史 資料編 考古4 (遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)の「土器塚」の項(執筆者 阿部芳郎)には、この遠部台遺跡土器塚の下部から道路遺構(東西方向)が出土した旨記述があります。この土器塚が印旛沼へ抜ける道路を含む交通の要衝(交差点?)に存在していたことは確実です。そしてその位置が集落外縁帯です。

2-2 井野長割遺跡土器塚の集落立地位置と道路
井野長割遺跡土器塚も集落外縁帯に立地し、道路(交差点?)に面しています。

井野長割遺跡の立地と土器塚の位置
「阿部芳郎(2012):縄文後期の集落と土器塚-「遠部台型土器塚」の形成と加曽利B式期の地域社会-、人類史と時間情報~「過去」の形成過程と先史考古学~(雄山閣)」から引用

交差点から西へ向かう道路は他の資料をみると近くのより規模の大きな谷津方面へ向かっていて、印旛沼と結んでいる可能性があります。

2-3 土器塚が集落外縁帯の道路(交差点?)に立地する意味
土器塚とはそもそも土器を使った主食確保を祝う収穫祭における廃用土器の丁寧な道具送り跡であると考えます。
この考えから次のような意味を仮説します。

ア 集落外縁帯立地の意味
集落集団、あるいは近隣分家集落を含めた集団だけの収穫祭ならば、その場所を集落の外縁にもってくことは考えづらいことです。マウンドや竪穴住居のあるゾーンの内側に存在することが合理的です。
大膳野南貝塚の学習では集落の共同作業場などは竪穴住居ゾーンの内側にありました。
生業作業は内側で行うけれども、収穫祭の場所を竪穴住居ゾーンの外側に持っていくことの理由は、その祭祀が集落集団だけのものではないからだと思います。
家族の健康を祈願するような祭祀は竪穴住居でおこなわれたと考えますが、収穫祭は集団だけのものではなかったと考えます。

イ 道路(交差点?)立地の意味
道路(交差点?)立地の意味は集落外縁帯立地よりもより直接に、収穫祭祭祀が集団以外の外者と深く関係していることを物語っていると考えます。

ウ 収穫祭が贈与関係に基づく祭祀であるとする仮説
次のように仮説します。
縄文時代収穫祭は集落集団(近隣分家集団も含めて)だけでそれを祝うことはあまりにも利己的であり到底許されなかったのだと思います。
近隣や遠方からさまざまな贈与を集落は得て存立していたと考えます。東京湾の貝、村田川流域付近で獲れる獣肉、…翡翠、…。
そうした贈与関係のなかで行う収穫祭では近隣や遠方から多くの人を招いて、いわば公開された祭祀を行ったのだと仮説します。
堅果類主食が1年分賄えるお祝いを近隣・遠方の贈与関係者を招いて行い、宴会を行い、イオマンテを行い、帰りには沢山のお土産を招待者にもたせたと想像します。
そのお祭りの一環として廃用土器を壊して土器送りしたと考えます。
このように仮説すると、祭祀会場は集落内部ではなく集落近くの広い会場で、交通の便のよいところになります。

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