2017年10月19日木曜日

下総における馬牧の建設時期

白幡前遺跡、鳴神山遺跡が官牧と考えられる牧の居住地区であることを突き止めました。また上谷遺跡も小さな牧の居住地区であるといえます。
この記事では白幡前遺跡、鳴神山遺跡関連牧の建設年代を検討します。

1 白幡前遺跡関連牧(高津馬牧)
萱田遺跡群の竪穴住居消長を示します。

萱田遺跡群の竪穴住居消長と蝦夷戦争に関する時代区分

白幡前遺跡竪穴住居の年代は8世紀初頭からです。牧の母集落が8世紀初頭から始まっているのですから、牧建設は8世紀初頭頃であると考えます。

2 鳴神山遺跡関連牧(大結馬牧か?)
鳴神山遺跡の竪穴住居消長を示します。

鳴神山遺跡 竪穴住居の消長

7世紀に竪穴住居が2軒あるのですが、発掘調査報告書ではこの2軒は8世紀以降の集落とは関係を持たないと記述しています。
集落建設は8世紀初頭であることが明白です。
牧の母集落が8世紀初頭から建設されだしているので、牧建設もこの時期から始まったと考えることができます。

この様子を時期別竪穴住居分布図でみてみます。

鳴神山遺跡 7世紀竪穴住居分布図

鳴神山遺跡 8世紀竪穴住居分布図

鳴神山遺跡 9世紀竪穴住居分布図

鳴神山遺跡 10世紀竪穴住居分布図

集落を横断する直線道路が7世紀末から8世紀初頭頃建設され、8世紀末から9世紀初頭頃埋め立てられます。
集落は8世紀初頭から建設が始まります。
この情報から直線道路建設、牧建設、集落建設が8世紀初頭頃同じ場所で始まりました。この3つの事象が全く無関係にバラバラに行われたと考えることは出来ません。
同一の地域開発計画の中で実施されたことは確実です。

直線道路で東京湾(意富比[オホヒ]神社があり、牧があり、後世に夏見御厨となった付近)と香取の海を結び、その沿線開発として広大な土地を利用した馬牧とその従事者集落を建設するというプロジェクトが浮かび上がります。
8世紀初頭頃の計画的道路は地形を無視した直線道路建設を特徴としており、鳴神山遺跡の直線道路はその極端な特徴を備えています。

3 2つの牧が8世紀初頭頃建設された大前提としての駅路網建設
7世紀中ごろ~689年までの道路網を示します。

前期計画道路の形成(7世紀中頃~持統3(689)年)
「日本の古代道路を探す」(中村太一、平凡社新書、2000年)による

この時期は東海道が市川-船橋-千葉付近の東京湾沿岸を通っていません。この幹線道路網では白幡前遺跡や鳴神山遺跡付近の下総台地開発は不可能です。

次に689年以降の道路網を示します。

前期駅路の隆盛(持統3(689)年~神護景雲2(768)年)
「日本の古代道路を探す」(中村太一、平凡社新書、2000年)による

689年以降は東海道本路が市川-船橋-千葉付近の東京湾沿岸を通るようになります。

この東海道本路建設が下総地域開発の大前提となりました。
東海道本路から香取の海までの陸路をつくりその沿線開発したものが鳴神山遺跡関連牧建設です。

また東海道本路沿いに浮島牛牧(幕張付近)を建設したことも、東海道本路建設から派生したものであることは言うまでもありません。

東海道本路の検見川付近で花見川-平戸川(新川)-印旛浦の水運路を開発し(東海道水運支路建設)、その沿川開発として白幡前遺跡関連牧(高津馬牧)建設があると考えることができます。東海道本路建設がなければこの水運路建設もあり得ません。

2つの馬牧の建設年代推定

馬牧建設・集落建設が交通インフラ整備(駅路網建設、域内道路建設、東海道水路支路建設)とリンクしていて、律令国家発足時のビッグプロジェクトであった様子が浮かび上がってきました。

次の記事で東京湾と香取の海を結ぶ道路と東海道水運支路について検討します。

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