2016年4月9日土曜日

船尾白幡遺跡で乾漆を示す墨書文字(息)を認識

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漆業務に関する祈願語「七」(シチ=漆[シチ]…うるし)、「知」(シル=汁[シル]…漆液体)、「益」(エキ=液[エキ]…漆液体)について鳴神山遺跡と千葉県全域について検討してきました。

記事を書くごとに新たな発見的認識が生まれていますので、知識習得のチャンスと割り切り、ブログ記事のストーリー性や連続性等を犠牲にして、さらに順次漆関連記事を書きます。

私としては積極的に漆に焦点を当てたことはないので、墨書土器文字情報が私めがけて文字意味を情報発信しているような、オカルトチックな心理状況になっています。

この記事では船尾白幡遺跡の漆関連墨書文字の検討を行います。

墨書文字「七」「知」が船尾白幡遺跡からも出土しているので、その状況を調べてみました。

船尾白幡遺跡 七、知、益と共伴出土する墨書文字

船尾白幡遺跡 墨書文字「七」「知」の出土状況

「七」(シチ)が1点、「知」(シル)が2点出土しています。

これで、船尾白幡遺跡でも漆業務が行われていたことの証拠をつかむことが出来ました。

発掘調査報告書を再度取り寄せて西根遺跡を調べると、西根遺跡から漆液体(が固まったもの)そのものが入った容器(土器1点、木器1点)が出土しています。(西根遺跡の漆関連検討は追って別途記事で書きます。)

従って、鳴神山遺跡、西根遺跡と船尾白幡遺跡ですべて漆関連遺物が出土していることになります。

さて、上記表で竪穴住居SI044で「□知」の他に「麻」「息息」が共伴出土していることが気になりました。

「麻」が麻布の麻であるとすれば、それは集落の生業を示すことになり、濃厚な養蚕活動との関連に興味が湧きます。

また「息」という墨書字は珍しいという記述が発掘調査報告書にありました。珍しいとか不可解だという印象を持つ文字は、自分の場合は、いつも説得力ある解釈が可能ですから期待が持てます。

(もちろん、説得力ある解釈がいつも正解であるとは限りません。踏み台となるたたき台を作れる可能性が強いというこです。)

そのような感想を持ちながら、漆の情報を百科事典でぼんやりと読んでいました。

そのうち、ぼんやりしている頭脳のなかに、情報が結びついた瞬間がありました。

乾漆が古代では「ソク」と発音する漆技術用語であったという事実です。

そして「息」は「ソク」と発音します。

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かんしつ 【乾漆】

木,土などの型の上に麻布を漆で何重にもはり重ねて固める技法,およびその作品をいう。

中国では古くから夾紵〘きようちよ〙といい,日本でこの技法が盛行した奈良時代には即,塞,〓(土偏に塞)〘そく〙などといった。

紵は麻布の一種をいい,塞は布によってふさぐとの意であろう。

乾漆は主に近代の用語で,初めは後述の乾漆像について主に用いられ,のち一般化して現在は工芸,考古学の分野でも用いられる。

[日本への伝来]
日本の夾紵技法は7世紀初めころに中国から伝来したと考えられる。

聖徳太子の墓と伝える磯長〘しなが〙墓から夾紵棺の破片と推定されるものが出土し,その他奈良県菖蒲山古墳出土のものは,石棺の内面に約5㎜の厚さに夾紵の内ばりがなされ,奈良県牽牛子塚〘けごしづか〙古墳出土の夾紵棺は厚さ約2㎝,粗い麻布を約35層に漆ではり重ねて表に黒漆,内に赤漆を塗っている。

また鎌倉時代の《阿不幾乃山陵記〘あふきのさんりようき〙》によれば,天武天皇陵の棺が張物だといい,これも夾紵棺であろう。

夾紵像の製作はこれら夾紵棺の製作にやや遅れ,文献では天智天皇発願大安寺丈六仏像を初見とし(《大安寺伽藍縁起資財帳》),遺品としては7世紀末期に推定される当麻寺金堂四天王像が最も古い。

奈良時代には最も盛んに作られ,734年造立の興福寺八部衆十大弟子像,8世紀中期の東大寺法華堂諸像などの遺品があり,このころが技術的にも頂点にある。

『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズから引用
太字は引用者




そく【〓(土偏に塞)・塞・即・則】

奈良時代に唐から伝来した漆工技法の名称。

中国で夾紵(きょうちょ)といい、いま俗に乾漆という。

麦漆(生漆と麦粉とを練り合わせた漆糊)で麻布を張り重ねて素地とし、上塗りを施し仕上げたもの。

仏像・器物に応用され、平安初期まで行われた。

『広辞苑 第六版』 岩波書店から引用
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「息」は〓(土偏に塞)・塞・即・則と書かれる漆技術用語の「ソク」であると考えます。

さらに「麻」が共伴出土していますが、麻は乾漆の主要な材料ですから、「麻」の共伴出土が「息」が漆技術用語の「ソク」であることのダメ押し情報となります。

船尾白幡遺跡で、麻布を漆糊で固めて木や土の枠にはめて形をつくり、その上に漆を上塗りした漆器をつくっていたことが墨書土器文字から判明しました。

船尾白幡遺跡の発掘調査報告書をもう一度読んで、乾漆に関連するような遺物が出土していないか、精査します。

「息」(ソク)が乾漆業務の発展を示す祈願語であることが判ったので、この言葉の船尾白幡遺跡での出土状況を調べてみました。

芋づる式に情報を調べていることになります。

船尾白幡遺跡からはSI044竪穴住居以外に3つの竪穴住居から文字「息」が出土しています。

船尾白幡遺跡 息と共伴出土する墨書文字

墨書文字「息」も「七」「知」と同じく漆業務を示す文字ですから、それらの出土状況をまとめて分布図にしてみました。

船尾白幡遺跡 墨書文字「七」「知」「息」の出土状況

遺跡全体に分布が広がっているように観察できますから、大ざっぱに捉えると、漆業務も養蚕業務と同じく船尾白幡遺跡の重要な生業であったと推察できます。

さらに年代別に詳しく見ると、船尾白幡遺跡の中心部と考えた地域には「七」「知」「息」出土が集中し、その年代が8世紀後葉~9世紀初頭です。蝦夷戦争準備時代、蝦夷戦争時代であり、律令国家の関与が強かったと考えて時代です。

一方その場所から離れた場所の「知」「息」出土遺構の年代は9世紀に入ってからです。

つまり、漆業務に関しては集落中心部に始まった活動が、その後集落中心部では終息し、集落外延部で行われたと考えることができるかもしれないと考えます。

もしそのような時代別分布変化把握が正しいとすると、その理由は、現時点では漆乱獲に関連すると想定しておきます。

8世紀に集落中心部付近の漆の木を利用しつくしてしまい、知(シル)が取れなくなり、その付近では漆業務が展開できなくなり、しかたなく漆工房を集落外延部に移動させて、そこで漆の木を探したのだと思います。

縄文時代における資源枯渇を招かない長期にわたる漆利用などと比べ、律令国家による漆業務は強く自然収奪的であり、資源枯渇が社会問題化していた可能性があります。

下総国の多くの地域では古代に漆業務が終焉してしまった地域が広がります。
2016.04.06記事「参考 千葉県における漆関連墨書文字分布」参照








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