2017年8月22日火曜日

西根遺跡 土器と一緒に出土する木の様子

西根遺跡発掘調査報告書口絵カラー写真に土器とともに木が出土している様子が映っていることが判りましたので、メモしておきます。

西根遺跡発掘調査報告書口絵カラー写真 第1集中地点 流路1内土器検出状況

刻印や削り跡からイナウであると想定している丸木(発掘調査報告書では「杭」)に関する発掘調査写真を千葉県教育庁で許可を得て閲覧させていただいたのですが、丸木出土グリッド(4C09)の写真の一つが報告書口絵カラー写真であることから、この写真に木が映っていることを知りました。

口絵写真の木の大きさはイナウ想定丸木と同じような太さ形状をしているようですが、割れ口(切り口)の形状がイナウ想定丸木とは違うようにも見えます。口絵写真の木がイナウ想定丸木であるかどうか、閲覧写真を入手してから精査したいと思います。

口絵写真の木がイナウ想定丸木であればその出土状況を確かめることができたことになりますし、そうでなければ、類似丸木が別にあったことになり検討価値がある新たな情報を入手できたことになります。


2017年8月21日月曜日

カワラケについて 土器塚学習2

図書「千葉県の歴史 資料編 考古4 (遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)の「土器塚」の項とそこに掲載されている参考文献を使って土器塚の学習を始めます。
この記事では用語「カワラケ」について派生した興味をメモしておきます。

1 土器塚の呼び名
図書では「「土器塚」という名称の由来」という項目があり、「土器塚(どきづか)という用語は江戸時代にまでさかのぼり、「江戸名所図会」には「土器塚」の名称を見ることができる。ただし、当時は「かわらけづか」とよばれていたらしい。」という趣旨の記述があります。
自分には基礎知識がないので、一応調べてみました。

江戸名所図会の駒場野の近くに土器塚(かわらけづか)という項目があり次のような記述があります。

「新訂江戸名所図会 巻之三天璣之部」における土器塚(かわらけづか)記述
「新訂江戸名所図会 巻之三天璣之部」(ちくま学芸文庫)から引用

参考 「新訂江戸名所図会 巻之三天璣之部」駒場野
「新訂江戸名所図会 巻之三天璣之部」(ちくま学芸文庫)から引用

調べるとこの土器塚(かわらけづか)は現在東京都目黒区遺跡№53土器塚遺跡(かわらけづかいせき)として埋蔵文化財登録されています。目黒区ホームページでは「発掘調査によって、弥生時代後期(約2千年前)の竪穴住居跡竪穴住居址48軒と、集落を囲む環濠かんごうの一部が発見され、弥生時代に特徴的な環濠集落であったことが判明しました。」と書かれています。
カワラケ(土器)が沢山出土する塚なのでカワラケヅカ(土器塚)と呼ばれ、カワラケ(土器)の最初の研究対象になったものと考えます。

カワラケヅカ(土器塚)はカイヅカ(貝塚)と横並びになるような名詞であり、カワラケ(土器)が塚のようになっている場所(カワラケが沢山ある場所)という意味であると理解します。
駒場野のカワラケヅカ(土器塚)は一般名詞から地名(固有名詞)に変化したものだと理解します。

一般名称としてのカワラケヅカ(土器塚)という呼び名が、現在なぜドキヅカ(土器塚)と呼ばれるように変化したのか、図書には説明がありません。しかし、土器塚の呼び名は西根遺跡をめぐる問題意識とは直接関係しないことが明白になりました。

以下は関連して派生した興味メモです。

2 カワラケに関する派生興味
2-1 カワラケの語源
カワラケの辞書説明は次のようになります。
……………………………………………………………………
かわら‐け かはら‥【土器】
〖名〗 (食器として用いる瓦笥(かわらけ)の意)
① 釉(うわぐすり)をかけないで焼いた陶器。素焼きの陶器。古くは食器として用いたが、のち、行灯(あんどん)の油ざらなどに用いられた。
*延喜式(927)四「九月神甞祭〈略〉土器(かわらけ)四千五百口」
*枕(10C終)一三二「聰明(そうめ)とて、上にも宮にも、あやしきもののかたなど、かはらけに盛りてまゐらす」
② 素焼きの杯。酒を飲む器。
*伊勢物語(10C前)六〇「女あるじにかはらけとらせよ。さらずは飲まじ」
*源氏(1001‐14頃)賢木「中将、御かはらけまゐり給ふ」
③ (杯を、人にすすめたり、人から受けたりするところから) 酒盛り。酒宴。
*宇津保(970‐999頃)祭の使「御かはらけ始まり、御箸下りぬる程に」
④ 女性が年ごろになっても、陰部に毛がはえないのをいう俗語。また、その女性。
*俳諧・鷹筑波(1638)一「けのなひ物をかはらけといふ その比(ころ)はうねめの年や十二三〈不竹〉」
『精選版 日本国語大辞典』 小学館 から引用
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カワラケは瓦笥であると説明されていますが、瓦笥(カワラケ)の語源にかかわる説明はありません。
私は「モノノケ」などと同じ語法であり、瓦(カワラ)+気(ケ)と解釈し「瓦の気配」のような印象の言葉であると考えます。
地表に露出した「煎餅のように押しつぶされた」縄文・弥生時代土器の様子をみて「瓦のようだ」という趣旨の感想を持ったことが語源ではないかと推測します。
カワラケは古墳時代人が縄文・弥生土器露出露頭の観察から生まれた言葉に違いないと考えるので興味を持ちます。
ドキ(土器)、ハニ、ハネ、ハジ、スエなど土器に関する言葉はいろいろありますがこれらの正統用語とは別に、「縄文・弥生時代の土器が地表に露出しているところがどこでも沢山あった風景なので、その風景観察の感想から生まれた用語」としてカワラケを考えると興味が湧きます。

カワラケという言葉には古代人の土器露出露頭観察の感想が含まれていると考えます。

2-2 千葉県における地名カワラケ、ドキの確認
私家版千葉県小字データベース(千葉県地名大辞典 角川 小字一覧の電子データベース版)を検索すると「カワラケ」4件、「ドキ」5件がヒットしました。

千葉県の小字カワラケ4件

千葉県の小字ドキ5件

これらの地名が土器露出露頭の存在を意味するのか、それとも瓦や須恵器・土師器の窯と関連するものであるのか興味が湧きます。いつか検討したいと思います。

関連参考 2016.05.18記事「古代窯業地名スエ・ハジ及びハニ・ハネの千葉県検索結果

2-3 カワラケ投げ
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かわらけ‐なげ かはらけ‥【土器投】
〖名〗 山の上などの高い所から土器を遠くへ投げて、風に舞うさまを見て楽しむ遊び。京都の高雄山や愛宕山、江戸の飛鳥山などで、花見の時に多く行なわれた。
*俳諧・誹諧発句帳(1633)冬「紅葉ちるはかはらけなげか高尾山〈幸和〉」
『精選版 日本国語大辞典』 小学館から引用
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以前から次のような遠大な仮説を持っていますのでメモしておきます。

西根遺跡土器集中地点の土器は全てその場で意図的に破壊されています。
機能喪失土器(廃用土器)を破壊することによって土器に込められている精霊を解き放ち、土器送りを完遂したのだと考えます。
そのような縄文時代の習俗がその後の時代にも伝わり、そのうち零落した姿になってしまったものとして酒席余興酒杯投げがあると仮説します。
酒席余興のカワラケ投げの起源は縄文時代土器送り祭祀にあると仮説します。

2017年8月19日土曜日

イナウ学習 北原次郎太「アイヌの祭具 イナウの研究」(北海道大学出版、2014)

イナウに関する付け焼刃学習の第8回目です。
切りが無いのでこの付け焼刃シリーズ学習はとりあえず今回を終回にします。

近々、縄文時代後期イナウ現物そのものであると想定している西根遺跡出土丸木の未公開出土写真を閲覧する機会がありますので、その閲覧の後、付け焼刃ではない腰を落ち着かせた(広義祭具学習の一環としての)イナウ学習に取り組みたいと考えています。
(資料現物は既に閲覧していますが、薬剤とともに透明ビニール袋に入れて保存処理されていますので、観察に限界がありました。)

この記事では北原次郎太「アイヌの祭具 イナウの研究」(北海道大学出版、2014)におけるイナウの意義記述について学習します。

1 イナウの機能
北原次郎太「アイヌの祭具 イナウの研究」(北海道大学出版、2014)ではイナウの機能を次のように記述しています。
イナウの主な働きとして、神への捧げ物、メッセンジャー、守護神の3つが挙げられる。しばしば言われる依り代としての働きはない。上でのべたように、樺太では魔祓いの用途にも用いる。どのような形状のイナウでも、幾通りかの使い方があり得るし、多くのイナウは捧げ物とメッセンジャーの役割を兼ねている。

この図書では贈与物、伝令者、守護神について事例を含めて詳しく検討して「イナウ独自の働きはやはり贈与物であって、言伝の役割は、副次的なものであるように思える。」と結論的に述べています。

2 イナウと機能共通の別素材比較対象
北原次郎太「アイヌの祭具 イナウの研究」(北海道大学出版、2014)ではイナウと機能共通の別素材比較対象について次のように記述しています。
イナウについて考える上で、周囲の民族との比較検討は必須だが、このように多義的で形も素材も様々なイナウのどこに焦点を当てるかによって、その対象も変わってくる。ウイルタ、ニヴフ、ウリチ、そして本州の削り掛けのように素材・形状とも類似するものに加え、前述したような他の素材との併用、または代替使用に注目すれば「機能・使用形態が類似するもの」という枠組みで比較対象を探すことも可能である。例えばサバ文化では、馬のタテガミと絹糸を撚り合わせたものを「salama」と呼び、剥幣のように用いる。馬乳酒祭という行事において立てられる装飾的な柱に張り巡らし、あるいは遠隔地へ移動する際、移動路の側に立っている特別な木にsalamaをしばって垂らし、旅行中の安全を祈る。これらはいずれも神々への贈与を意図して行われるのだという。ここに、剥幣との共通点が見えている。また、カムチャッカでは、ハマニンニクの茎を木偶に巻きつけて用いる。これも素材は異なるが、意図・使用形態という点からいえば、剥幣との比較対象に入れるべき文化である。
このように、見方によって、比較研究の対象地域は大きく広がる。従来は、木製であること、削りかけを持つことがイナウの本質のとしてとらえられたために、比較対象といえば本州の削りかけが主であった。しかし、上記の様に贈与物として用いられる多様なものの1つの形態として木の削りかけをとらえれば、視野は一変する。

このブログで柳田國男の考えに立脚して検討している「イナウとヌサ・ぼんでんとの関連性」などとも親和する記述です。

参考 イナウ・ぬさ(幣帛)・ぼんでん(梵天)の関係(想像)

3 イナウの発展 「具象から抽象へ」か「抽象から具象へ」か
北原次郎太「アイヌの祭具 イナウの研究」(北海道大学出版、2014)では先行研究を吟味しながらイナウが偶像など具象から抽象に発展してきたのか、あるいは逆に抽象から一部にみられるような具象(人面など)に発展しているのか論じています。
著者は具象から抽象に変化したとする説を「考古遺物などを含めたより広い視野に立ち、新旧の造形物を関連付けようとしている」として支持しています。

西根遺跡出土丸木がイナウであるとする学術認定があれば、イナウの発展は著者が考えるような「具象から抽象へ」ではなく「抽象から抽象へ」が本質であり、派生物としては「抽象から具象へ」もあるということになりそうです。

4 石器によるイナウ作成
北原次郎太「アイヌの祭具 イナウの研究」(北海道大学出版、2014)では石器によるイナウ作成について次のように1言だけ触れています。
「…知里も言っているように、黒曜石の剥片を利用して削りかけを作ることも可能であるし、…」
この記述からアイヌイナウ研究では縄文時代出土遺物はもとより鉄器導入以前出土遺物としてのイナウの存在は知られていないことが判ります。

西根遺跡出土イナウの意義は大きなものがあります。
2017.07.05記事「西根遺跡出土縄文時代丸木はイナウ」参照
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北原次郎太「アイヌの祭具 イナウの研究」(北海道大学出版、2014)

2017年8月18日金曜日

土器を壊すことにより土器を送る 縄文時代西根遺跡と土器塚

土器塚学習に入る前に、西根遺跡で強く仮説している「土器破壊」についてまとめておきます。
西根遺跡も周辺土器塚も土器破壊によって土器を送っていたと考えます。

1 西根遺跡出土土器の割れ方
2017.07.12記事「西根遺跡の土器壊れ方観察」、2017.07.13記事「西根遺跡の土器の壊れ方観察2」で書いたとおり西根遺跡出土土器で観察したものは破片の様子から全て人為的に壊していると結論づけることができます。

観察例

観察例

上記記事では、一部が欠けたりして使えなくなった機能喪失土器(まだバラバラになっていない土器の姿を残している廃用土器)が西根遺跡にもちこまれて、破壊されたと考えて、次のような考察を行いました。

5点の土器は残存度の割りに土器破片が小さく、土器破片に元の姿を想起させるような大判のものがありません。
この壊れ方から、全てほぼ完形に近い土器を人為的に破壊して元の形が思い出せないようにしたものであると考えます。
元の姿に決して戻れないレベルまで壊すことによって、土器送りを行ったものと考えます。
西根遺跡の土器は全てほぼ完形に近い姿で持ち込まれ、祭祀の場で人為的に徹底して壊されたと考えます。
・西根遺跡の土器は残存度の高いものが多いことから、完形に近い姿で持ち込まれたと考えます。
・西根遺跡の土器の壊れ方が進んでいること(細片になっていること)と破片出土状況(破片が散逸していない状況)から自然的要因(流水や地象)による破壊は考える必要がないと考えます。

3つの土器ともに土器の完形姿を残すような大型片はなく、破片の集合から元の形を想起することが困難です。
このように、完形姿に近い土器を出土場所で徹底的に壊した理由は土器が何らかの機能を残して再利用される可能性を完全に排除する意思が働いたからだと考えられます。
土器の残片の中にカーブした部分や輪や凹んだ部分が残れば、モノを入れたり、モノを覆ったりする機能が残ってしまいます。リサイクル品としての機能が残ってしまいます。
それでは土器を完全に送ることができないという心理が働いたのだと思います。
土器を完全に送るため、自分の心と齟齬が生れない丁寧な送りをするために、土器を徹底して壊したのだと考えます。

2 西根遺跡の「土器片大きさと土器密集度の逆相関」
西根遺跡では土器が密集する場所(大型土器が多く、獣骨が分布する祭祀中心地)ほど土器片の大きさが小さくなっています。
2017.06.25記事「西根遺跡に持ち込まれた土器は全て破壊されたか」参照

1m×1mグリッドあたり土器重量と1破片あたり重量

祭祀が熱心に行われた場所ほど土器破壊が熱心だったことがデータとして明らかになりました。

(注 発掘時における土器破壊の可能性
上記データがあまりにもドラスティックなので、発掘現場をしらないため私は重機の影響等の存在を疑い関係者にお伺いしたところ、発掘では重機は使用せず、発掘作業で土器が破壊されたような状況は無いと教えていただきました。)

3 アイヌ「物神の霊送り」と土器破壊の通底性
北原次郎太「アイヌの祭具 イナウの研究」(北海道大学出版会)ではアイヌ儀礼における「物神の霊送り」でつぎのように記述しています。
その他の細々とした道具類も、使用に耐えなくなる、あるいは役割を終えると霊送りを行う。その際、どこかに傷をつけることで、霊魂が抜け出して神界へ戻ることができるという。
アイヌのこのような思考と西根遺跡土器破壊で想定した思考は原始時代に遡る思考という点で通底していると考えます。

4 土器を壊すことにより土器を送る
上記1、2のデータと3の情報から西根遺跡の土器は全て現場で破壊されたものと考えます。
土器塚も同じ状況であると想定して土器塚学習を始めます。

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5 参考 西根遺跡発掘調査報告書における土器破壊記述
西根遺跡発掘調査報告書ではつぎのような記述があります。
「ただし、打ち欠いて廃棄している例が若干みられ、…」

次の2つの理由からこのような控えめな記述になったと考えます。
1 現場発掘担当者、土器復元担当者、報告書執筆担当者が異なることによる
現場発掘担当者、土器復元担当者、報告書執筆担当者が同一人であれば土器が全て人為的に破壊された可能性を感じると思います。
2 流水営力イメージの誤解
報告書執筆担当者が縄文時代後期の戸神川地形環境(海の河口部)についての情報を所持していれば、流水営力による土器破壊や移動は極めて限定されることから、土器の人為的破壊に意識が向いたと考えます。
発掘関係者は現在戸神川の流水を誤ってそのままイメージしてしまうととともに、その流水営力についてもあまりにも過大に想像してしまったのだと考えます。

2017年8月16日水曜日

土器塚学習の開始

西根遺跡に類似する土器多出遺跡として「土器塚」と呼ばれている遺跡が下総にありますが、たまたまパラパラめくっていた図書「千葉県の歴史 資料編 考古4 (遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)に「土器塚」という項目が独立してありました。

「土器塚」の最初のページ 「千葉県の歴史 資料編 考古4 (遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用

ざっと読むと、西根遺跡の特徴と瓜二つの特徴がいくつも出てきていますので、これをテキストにして、また参考文献を入手して短期集中学習をすることにします。

西根遺跡が土器塚の1類型であることは間違いないと考えます。

なお、文中や参考文献に戦前からの考古学者として和島誠一という名前が出てきます。和島誠一先生は私が大学で講義を受けたことがあり(*)、そうした親しみを憶える過去体験の記憶がよみがえったことも学習意欲を増進させます。

*2013.08.10記事「縄文土器を拾う」参照

この記事では参考文献を取り寄せる前の感想を記録しておきます。
参考文献を読む前と読んだ後の自分の思考の変化がどうなるか興味があります。
今考えている自分の思考(見立て)が参考文献研究成果摂取によって大幅改変することになるのか、それとも反対に自分の見立ての蓋然性の高さに自信を深めるのか、その双方・中間か。いずれのコースを歩むにしても自分の学習は深まるに違いないと期待しています。

1 土器塚の分布
図書には利根川沿岸1カ所と印旛沼流域6カ所の土器塚が紹介されています。

印旛沼付近の土器塚と西根遺跡

2 土器塚の特徴
図書では次のように土器塚研究をまとめています。
・形成時期が後期前半の堀之内2式から加曽利B3式期に限られる。
・土器塚は本来の縄文時代遺構である。
・分布が利根川下流から下総台地中央部に集中している。
・土器塚を残す遺跡は集落祉であると考えられる。しかも継続期間の長い大きな遺跡である点で共通している。
・詳しい調査が十分なされていないので土器塚の構造の違いはあるかもしれない。
・土器塚の形成年代や立地などの共通性を重視すると、縄文後期社会、わけても加曽利B式期を特徴付ける現象である可能性が高い。

3 西根遺跡との共通性と非共通性に関する感想
この論説の中にでてくる個別土器塚の特徴と西根遺跡とのあいだに次のような共通性を感じました。
●土器形式
加曽利B式土器がメインであるという点で土器塚と西根遺跡に時期と共通性があります。
●土器の精製・粗製別
粗製土器がメインであるという点で土器塚と西根遺跡に共通性があります。
●完形土器の欠如
復元すると完形土器がないという状況が土器塚と西根遺跡に共通します。(とりわけ重要な共通性であると考えます。土器塚も西根遺跡も機能喪失土器だけが出土していることになります。)
●出土状況の類似性
「煎餅を踏み潰したようにギッシリ詰まっている」状況が土器塚と西根遺跡で同じです。
●石器出土が少ない
土器塚も西根遺跡も石器出土が土器と比して極端に少ないようです。

また、土器塚と西根遺跡は次のような非共通性があります。
●立地地形
土器塚は全て台地上で西根遺跡は低地です。
●集落空間との関係性
土器塚は集落空間との関係性が(おそらく距離が近いので)明瞭であるようです。
西根遺跡は集落空間に付属するような遺跡ではありません。(西根遺跡は土器を丸木舟で運んできているので、検討無しに集落との関係を直接的に把握できません。なお、西根遺跡は特定1つの集落に対応するものではなく、近隣印旛沼南岸の集落群に対応する広域後背地を有する遺跡であると想像しています。)

4 学習の視点
次のような疑問を参考文献にぶつけながら学習を進めて、土器塚と西根遺跡の特性に迫りたいと思います。
・土器塚出土物の中に西根遺跡における祭祀関連出土物(イナウ、飾り弓、獣骨)と対応するような出土物があるのか。
・土器が意図的に壊されているか。(おそらく土器塚と西根遺跡は機能喪失土器を破壊する行為が祭祀のメインであったと考えます。)
・交通環境の中で土器塚をみるとどのような眺め(思考・想定)が生まれるか。
・祭祀・交流・イベントなどの機能を有する「現代でいえば神社みたいなもの」として土器塚をイメージすると、どのような不都合、好都合が考えられるか。
・施設空間廃絶祭祀が土器塚のベースにある(原点である)と考えられるか。(図書の記述を読むと、土坑の廃絶や道路交差点空間の付け替えなどがきっかけで土器塚が始まったといえるかどうか興味津々です。)
・土器塚相互の間に祭祀ネットワークなどの関連性を想定出来うるか。西根遺跡と土器塚の間に何らかの関連性を想定出来うるか。

2017年8月15日火曜日

交通環境の中でみた西根遺跡

2017.08.14記事「縄文海進海面の鳥瞰による考察 印旛浦-手賀浦」で西根遺跡の本質にかかわるイメージを検討(思考、想像)しました。
縄文海進という一見して自然科学的な事象の鳥観図をみながら、それから刺激を受けて思考していることは西根遺跡が「神社」みたいなものだという考古に関することですから、その記事を読んでいただいた方には記事の真意を理解していただけなかったかもしれません。
縄文海進鳥瞰図から刺激を受けて、私が考えたことは縄文時代交通です。
そこで、交通環境からみた西根遺跡についてまとめて、2017.08.14記事の追補とします。

交通環境から西根遺跡をみるとつぎのようになります。

交通環境の中でみた西根遺跡

土器集中地点(西根遺跡)の様子を次のように想定します。
●ミナト直近陸路に位置する
●多数のイナウ祭壇の存在が推定される
●イオマンテ類似祭祀・イベントの場であったことが推定される
●手賀浦経由でやってくる東北・北陸縄文人との交流の場であったかもしれない

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参考 2014.10.01記事「縄文交通路パターン作業仮説 追補」収録図版

千葉県北部の縄文時代交通路パターン仮説(ar2014093002)
基図は地形段彩図

縄文時代交通路の台地越部に関する空想

2017年8月14日月曜日

縄文海進海面の鳥瞰による考察 印旛浦-手賀浦

印旛浦-手賀浦付近の縄文海進クライマックス期海面(縄文時代早期海面)をGoogle earth proをつかって鳥瞰してみました。

縄文海進海面の鳥瞰 印旛浦から手賀浦方向
Google earth proを活用

縄文海進海面の鳥瞰 印旛浦から手賀浦方向
Google earth proを活用

縄文海進海面の鳥瞰 手賀浦から印旛浦方向
Google earth proを活用

縄文海進海面の鳥瞰 手賀浦から印旛浦方向
Google earth proを活用

戸神川谷津と手賀浦から伸びる谷津が近接していて縄文時代早期にこのルートが印旛浦と手賀浦を結ぶ主要水運路であったことが判ります。

その後海面低下により縄文時代後期(加曽利B式土器期)の戸神川谷津では西根遺跡より下流にまで海面が後退(海退)しました。
この間の約3000年間の間に戸神川谷津は印旛浦と手賀浦を結ぶ陸路(船越)として使われていたと考えます。

西根遺跡付近の縄文時代早期海面(上)と後期海面(下)

これらの図を眺めながら次の考察をしました。

●西根遺跡土器集中地点はミナト(戸神川が流入する印旛浦海面付近)から陸路手賀浦に向かう通路(あるいは手賀浦から陸路印旛浦に向かう通路)に存在します。
つまり交通する人々にその存在を主張している施設であると考えることができます。

●西根遺跡からイナウが出土していて、土器集中地点には多数のイナウが建てられていたことが想定できます。アイヌのヌササンと呼ばれるような祭壇が列状に沢山あったことが想定できます。
つまり土器集中地点の風景は地面に土器の破片が堆積しているだけでなく、谷津谷底という平坦な場所に立体的祭壇風景が存在していたと想定します。

●西根遺跡から飾り弓が出土するとともに土器集中地点の中心部から多量の獣骨が出土しています。これから、土器集中地点は獣肉食を伴うイオマンテのような祭祀の場であったことが想定できます。つまりイベントの場、お祭りの場であったのです。

●以上の想定から西根遺跡は手賀浦方面からやって来る人々と印旛浦の人々が交流を深めるための祭祀が行われた場(お祭り・イベントが行われた場)であると想定します。

●手賀浦方面からやってくる人々とは手賀浦付近居住縄文人だけでなく、縄文時代後期日本列島文化の中心であった東北や北陸の人々が含まれていたと考えます。

●土器集中地点とは現代風に考えれば神社そのものです。

……………………………………………………………………
●上記鳥観図はGoogle earth proの地形情報に地図を被せて立体表示しています。ところが、Google earth proの地形情報は現代開発後の、「今の今」の地形ですから本来地形ではありません。またGoogle earth proの地形精度は良くありません。
そこで、旧版2万5千分の1地形図コンターから地形を直接的に立体モデルとして作成して、それに地図を被せれば訴求力のある画面をつくることができると考えます。
それが技術的に出来そうなので、時間が生れれば取り組みたいと考えます。
ブログ「花見川流域を歩く番外編」2017.08.06記事「古地図の立体モデル化ができそう」参照

2017年8月13日日曜日

縄文時代の印旛浦-手賀浦交通路

2017.07.31記事「印旛沼・手賀沼付近の縄文海進海面分布イメージとその移動ルート」で縄文時代の印旛浦西部における印旛浦-手賀浦交通路は戸神川ルートしか存在しえないことを検討しました。

この検討の後、縄文海進クライマックス期の海面分布、その後の海退期の海面分布をボーリングデータを参考に想定しました。

そこで、再度詳しく縄文時代の印旛浦と手賀浦の交通路について検討します。

1 縄文海進クライマックス期の海面分布
戸神川谷津の縄文海進クライマックス期海面分布はボーリングデータから実証的に把握できました。
この海面分布に対応する現在地形谷底標高は約12mになります。(現在地形といっても、もちろん現代開発前の地形です)
広域一般論(簡易思考)として縄文海進クライマックス期海面分布は現在地形標高10mに対応すると考えてきています。
そして戸神川で約12mという値を得られましたので、この値を戸神川付近の谷津に適応してより蓋然性の高い縄文海進クライマックス期海面分布図を作成しました。

印西台地付近縄文海進クライマックス期の海面分布想定

2 縄文時代早期の印旛浦-手賀浦メイン交通路
1で作成した海面分布図を利用して縄文時代早期の印旛浦-手賀浦メイン交通路を作成しました。

縄文時代早期の印旛浦-手賀浦メイン交通路

この図を西根遺跡付近について拡大して表現すると次のようになります。

縄文時代早期の印旛浦-手賀浦メイン交通路 西根遺跡付近

戸神川谷津から直接台地に接続できる海-陸の関係が存在しています。
西根遺跡付近は海の底に位置していて、もちろんまだ遺跡は形成されていません。

3 縄文時代後期(加曽利B式土器期)の印旛浦-手賀浦メイン交通路
これまで検討してきた海退期海面分布図をつかって縄文時代早期の印旛浦-手賀浦メイン交通路を表現しました。

縄文時代後期(加曽利B式土器期)の印旛浦-手賀浦メイン交通路 西根遺跡付近

戸神川谷津の海退が順次進み、台地から谷津谷底に降りる陸路が船越として利用されたと考えられます。
西根遺跡はミナト(海面と陸路接点)直近の船越(陸路)に存在します。

この交通路上(ミナト直近)に西根遺跡が存在していることが、西根遺跡の隠された特性を暴き出すカギになると考えます。

交通路との関連思考なしに西根遺跡の本質を捉えることは出来ないと直観しています。






2017年8月11日金曜日

土器集中地点時期別の海退アニメ(千葉県印西市西根遺跡)

2017.08.10記事「土器集中地点別海面分布」で作成した縄文時代後期の想定海面分布図(海退の様子)6枚をアニメにしてみました。
平面図を並べるのと、アニメにするのでは情報内容は同じですが、それから受ける印象やその刺激から発生する思考内容は大いに違ってきます。

土器集中地点時期別の海退アニメ
赤丸は土器集中地点を表現します。
その土器集中地点が形成されていた頃の想定海面を水色で示します。
青線は戸神川の縄文時代後期流路(流路1)です。

水色の想定海面は丸木舟で自由に航行できた海域であると考えます。
水色の想定海面と青線の戸神川が接する場所が印旛海(印旛浦)西端のミナトであったと想定します。
このミナトから陸路(船越)で印西の台地を越え、手賀海(手賀浦)に交通路が通じていたと考えます。
印旛海(印旛浦)から土器集中地点までの戸神川は丸木舟の通航が困難を伴うけれども可能であった区間であると想定します。
土器集中地点は丸木舟通航限界点であり、その限界点で岸辺付近や水域に丸木舟で持参した土器を置いた(投げて壊した)と想定します。
土器集中地点は過去のミナト空間であった場所に該当すると考えます。

土器集中地点とはミナト空間廃絶祭祀場所であると仮説しています。

縄文時代竪穴住居跡はその多くが祭祀跡となりました。その結果土器・石器・獣骨など多様な遺物が出土しています。
竪穴住居跡と遺物との関係とほぼパラレルの関係で、ミナト跡という公共施設空間跡が公共祭祀跡であり、そこから多数土器等が出土すると仮説します。

土器第1集中地点が約3600年前、土器第7集中地点が約3300年前であり、約300年間の出来事のアニメです。(年代はC14測定)

2017年8月10日木曜日

土器集中地点別海面分布

2017.08.09記事「縄文時代後期海面分布の想定」で西根遺跡土器第3集中地点形成期頃の海面分布想定図を作成しました。

この図面と同じ図面をデータを検討してある第4集中地点、第5・6集中地点について作成しました。

またデータを外挿して、想像も交えて第1集中地点、第2集中地点、第7集中地点についてもその時期の海面分布を想定してみました。

次にその海面分布図を時間順に並べてみます。

土器第1集中地点形成時期頃の海面分布想定

土器第2集中地点形成時期頃の海面分布想定

土器第3集中地点形成時期頃の海面分布想定

土器第4集中地点形成時期頃の海面分布想定

土器第5、6集中地点形成時期頃の海面分布想定

土器第7集中地点形成時期頃の海面分布想定

縄文時代後期に海面が急速に後退する時期に西根遺跡に土器集中地点が形成されました。
土器集中地点は過去の海の戸神川河口最奥部であり、ミナトであった地点です。
また土器集中地点はその時期戸神川の、丸木舟で遡れる最奥部であった地点であると考えています。

上記海面分布想定図を使って西根遺跡の特性をあぶり出していこうと考えています。

2017年8月9日水曜日

縄文時代後期海面分布の想定

2017.08.08記事「縄文時代後期の戸神川谷津海岸線の推定」で土器集中地点時期別の海岸線位置を推定しました。

この海岸線推定位置付近のボーリングデータを見てみました。

戸神川谷津海退時堆積物(推定)の下限高度

最上流ボーリングデータ(右端)の位置が「第3集中地点時期の海岸線」の近くにあります。そしてボーリングデータの海退時堆積物の下限高度が1.89mであり、第3集中地点形成時期頃の推定海面高度1.9mと近似します。
この位置と高度の近似からこれまでの推定の確からしさを確認できます。

上流から2番目のボーリングデータ(右から2つ目)の位置は第5・6集中地点時期の海岸線位置に近似します。
しかし海退時堆積物の下限高度が2.45mになっています。従って海面高度を1.8mとして想定すると、その海面高度のとき、このボーリングデータ地点は陸域になっていたことが考えられます。海面高度1.8mの海(谷空間)はこのボーリング地点を避けてその近くであったことが想定されます。

このボーリングデータを参考にすると、次のような第3集中地点時期の海面分布を想定することができます。

西根遺跡 土器第3集中地点形成時期頃の海面分布想定

ボーリングデータから、縄文時代海退時期の海が現在谷津谷底平野幅と比べるとかなり狭い可能性があることに気がつかされました。

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参考 縄文時代後期谷津形成モデルに基づく海岸線位置の試算

2017年8月8日火曜日

縄文時代後期の戸神川谷津海岸線の推定

縄文時代後期(西根遺跡の加曽利B式土器時期)の戸神谷津付近の海岸線の位置を想定してみました。

2017.08.06記事「縄文時代後期谷津形成モデル」に基づく試算です。

仮定に仮定を積み重ねていますから大ざっぱなあまり当てにできない想定であることには間違いありません。しかし、検討ゼロで考えることを止めたり、検討ゼロで勝手な想定をするよりもましな学習であると思います。

縄文時代後期谷津形成モデルに基づく海岸線位置の試算

発掘調査報告書におけるC14年代測定では第1集中地点の年代が約3600年前、第7集中地点の年代が約3300年前となっています。
約6000年前の海面高度が3.2m、現在の海面高度を0mとして按分比例計算すると、第1集中地点時期の海面高度は約1.9m、第7集中地点時期の海面高度は約1.8mになります。
上記試算ではこの按分比例計算結果を概括的に利用しました。

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参考 流路1底の標高データ
西根遺跡断面図から縄文時代流路(流路1)の流路底高度を測定した作業図

2017年8月6日日曜日

縄文時代後期谷津形成モデル

2017.08.05記事「縄文時代後期の谷津形成について考える」で西根遺跡縄文時代流路(流路1)の流路底高度が下流程低くなるという予想が外れたことを書きました。

その理由を次のようなモデルを設定することにより解決できると考えますので、メモします。

西根遺跡縄文時代流路(流路1)の高度が下流ほど低くならない理由

このモデルを考えたことにより、流路の高度が低くならないという問題だけでなく、結果としての効果ですが、なぜ縄文人が流路とその付近に土器を置いたかという理由の答えが導き出されることになります。
流路の堆積や上昇が激しく、丸木舟の通航が不可能になったミナトの廃絶祭祀が西根遺跡の本質であるという仮説の確からしさが急増します。


2017年8月5日土曜日

縄文時代後期の谷津形成について考える

2017.08.01記事「戸神川谷津の縄文海進海面分布」で縄文海進クライマックス期の海面分布のイメージを、2017.08.04記事「戸神川谷津の縄文海進海面高度」でその時の海面高度のイメージを把握しました。
花見川で以前検討したことがあるので、それなりの確からしさを確保できている自信はあります。

その勢いに乗じて、縄文時代後期(加曽利B式土器期)の海面分布を明らかにしようとしました。
縄文時代後期の海面高度はクライマックス期の海面高度と現在の高度(0m)を時間によって按分比例で把握するしかないと最初から考えています。
縄文時代後期つまり西根遺跡の加曽利B式土器期の年代はC14で出ていますので、按分比例の計算はすぐにできます。

その当時の海面分布は発掘調査報告書所収の縄文時代流路の勾配を利用して、その時代の海面高度との交点を平面上(断面上)で求めれば把握できると考えていました。

ところが、「そうは問屋は卸さない」状況が生まれました。

次の図は西根遺跡断面図から縄文時代流路(流路1)の流路底高度を測定した作業図です。

西根遺跡断面図から縄文時代流路(流路1)の流路底高度を測定した作業図

上流から下流に向かって流路底高度が下がってくれれば、何とか思い通りの分析作業になります。

ところが上流から3.2m→3.3m→3.2m→3.5m→3.3mとなります。

上流から下流に向かって流路底が下がるという一般流路の縦断面になっていません。

次の図は土器出土層の高度分布図です。

発掘調査報告書による土器出土層縦断図

この図も大局的にみても、子細に検討しても上流から下流に高度が下がっていると結論付けられません。

縄文海進クライマックス期から現在まで順次海面が低下し、戸神川谷津では台地奥深く侵入した海が近世印旛沼の位置まで縮小していったことは確実です。

その確実な事実と西根遺跡縄文流路勾配の「異常」を整合させて説明できるようにならなければ西根遺跡の特性を知ることはできません。

データが自分を試す状況が生まれてしまいました。

この危機(?)をいかに脱出するか!

アーダ、コーダと考えているうちにこの危機から離脱できる思考が生まれましたので、次の記事で検討します。

海退期における谷津堆積過程というある程度専門的な検討になりますが、チャレンジしてみます。

全て予定調和的に進まないところに趣味活動の醍醐味と認識飛躍チャンスが生まれます。

2017年8月4日金曜日

戸神川谷津の縄文海進海面高度

2017.08.01記事「戸神川谷津の縄文海進海面分布」で戸神川谷津の縄文海進クライマックス期の海面分布を推定しました。
このデータに基づき、戸神川谷津の縄文海進クライマックス期海面高度を推定します。

次に窓をあけた部分のボーリングデータを分析します。

縄文海進クライマックス期海面高度検討領域

次のような結果となりました。

縄文海進堆積層の上面高度から推定する縄文海進クライマックス期海面高度

データ2とデータ3の堆積層上面高度から縄文海進クライマックス期海面高度を標高3.6mと推定しました。
(データ1は海進時堆積物と海退時堆積物の区分が困難であり、データ4は河成堆積物であると考え、省きました。)

印西付近は(房総付近は)縄文海進後現在までの間に地殻が上昇しています。ですから、絶対的な意味での縄文海進高度を求めようとするならば地殻上昇分の数値を差し引く必要があります。しかし、この付近の遺跡検討をするうえで地殻上昇分は一律であると考えることができますから、それを考慮する必要はありません。

なおボーリングデータから分かるとおり、縄文海進後の堆積物は谷津内部ではほとんどが腐植土です。泥炭であり草炭とも呼ばれ燃料として利用されたこともあるものです。江戸時代の花見川における印旛沼堀割普請ではこの腐植土が化灯土とよばれ、工事難航の主因になりました。
腐植土の厚さはデータ2では4.6m、データ3では5.85m、データ4では5.4mに及びます。

なお、縄文海進クライマックス期海面高度が3.6mに対して、データ2の地表面高度は9.0m、データ3の地表面高度は10.0mになります。
これから、2017.07.31記事「印旛沼・手賀沼付近の縄文海進海面分布イメージとその移動ルート」で検討した縄文海進海面分布を標高10mの等高線で捉えようとする簡易的方法が何も情報がなければある程度有効であることを示しています。

次の記事で、縄文海進クライマックス期海面高度3.6mという値を使って、縄文時代後期(西根遺跡の加曽利B式土器期)の海面高度とその分布を検討します。

2017年8月3日木曜日

イナウ学習 ぼんでん(梵天)とイナウ

イナウに関する付け焼刃学習の第7回目です。

梅原猛「日本の深層」における大胆な発想に強く共感してその思考を学び、また柳田國男「花とイナウ」の問題意識に興味を持つことによってぬさ(幣帛)とイナウが同根であることを学習しました。
2017.08.02「イナウ学習 ぬさ(幣帛)とイナウ」参照
ぬさ(幣帛)とイナウが同根であると考えることは、大きな文化的世界観の中における思考です。

ところが、身近な自分の居住空間における地物とイナウが同根であることに気が付きました。

4年前に2013.04.07記事「柏井橋近くの梵天(ぼんでん)」を書きました。
次のようにぼんでん(梵天)を観察しました。

柏井橋近くのぼんでん(梵天)

柏井橋近くのぼんでん(梵天)

柏井橋近くのぼんでん(梵天)

近くの旧家の方が地域に伝わる風習を伝えているものだと思います。

ぼんでん(梵天)の意義について、次のように学習しました。
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参考 ぼんでん 柳田國男監修 民俗学辞典(東京堂出版)

普通に梵天と書き、大きな御幣のこと。東北地方に盛んに用いられるが、大きな幣串に厚い和紙をとりつけたこの形式は、御幣の古態として珍しからぬものである。祭礼に際して、頭屋の標示に、御神幸の折の稚児のかつぎ物に、あるいは神事相撲の優勝者の表彰などに用いられる。このものが本来はミテグラとして神霊の憑依体であったのであるからこれらの機能はごく当然のことである。ボンデンという語は恐らくホデから来ており、ホデは目立つものの義であり、東北で蒔・草などの採取にあたり占有標の棒をいい、関東で小神の座をワラホウデンというのもそれである。神名に大宝天王というのが全国的にあるが、幣を神体としてあがめたことによるものであろう。[参]折口信夫「髯籠の話」(古代研究所収、昭4)
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ぼんでん(梵天)の和紙の総が棒の先端から垂れ下がる形状を思い出すと、野外のイナウ祭壇(ヌササン)との相似性を強く感じざるをえません。

この私が感じる相似性と同じ感覚を、別の沢山の事例で感じた柳田國男は「花とイナウ」の中で「二つの種族における一つの習俗」と書きました。

この私が感じる相似性と同じ感覚を、梅原猛は「日本の深層」で縄文人の文化が途切れることなくアイヌや東北人に伝わっているので当然であると論じています。

ぼんでん(梵天)がイナウから派生したものであるいうピンポイントの学説や仮説をみつけたことはありません。
しかし、梅原猛や柳田國男の学習結果に従えば、大局観としてぼんでん(梵天)は縄文人習俗である原始イナウから派生したものであると考えざるをえません。

イナウ・ぬさ(幣帛)・ぼんでん(梵天)の関係(想像)

路傍でみかけるぼんでん(梵天)はアイヌのイナウと縁戚関係にあり、そのルーツは縄文時代に遡ると考えることができます。

2017年8月2日水曜日

イナウ学習 ぬさ(幣帛)とイナウ

イナウに関する付け焼刃学習の第6回目です。

ぬさ(幣帛)とイナウの姿を並べてみました。

ぬさ(幣帛)とイナウ

モノの姿はよく似ています。

ぬさ(幣帛)は上記図付で、和漢三才図絵で次のように説明されています。
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幣帛 へいはく、みてぐら、にぎて、ぬさ
(和名は美天久良)
(また奴佐とも、仁木天ともいう)
幣帛は神事を奏する際に用いる紙総である。古(むかし)は帛(ぬの)を用いたのであろうか。白幣(之良仁木天)、青幣(阿乎仁木天)など五色がある。それで俗に五幣と通称する。
此の度はぬさもとりあえず手向山もみじの錦神のまにまに 菅家
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西根遺跡で発掘された丸木を縄文時代後期の原始的イナウと考えますので、それとぬさ(幣帛)、イナウとの関係を次のように捉えます。

イナウ・ぬさ(幣帛)の関係(想像)

2017年8月1日火曜日

戸神川谷津の縄文海進海面分布

2017.07.31記事「印旛沼・手賀沼付近の縄文海進海面分布イメージとその移動ルート」で簡易的方法により広域の縄文海進クライマックス期の海面分布を把握し、縄文時代の丸木舟を利用した印旛沼-手賀沼交通は戸神川谷津がその航路であったことを検討しました。

この記事ではボーリングデータを使って戸神川谷津の縄文海進海成層分布を把握することにより縄文海進海面分布を把握します。

戸神川谷津の主な地質柱状図は次の通りです。

戸神川谷津地質柱状図
データは千葉県地質環境インフォメーションバンクからダウンロードしたものです。
洪積層、沖積層の区分は層相及びN値等から明瞭に把握することができます。

このデータから海成沖積層の分布を推定すると次のようになります。

戸神川谷津縄文海進海成堆積物の分布

沖積層の層相がシルトや砂質シルトから腐植土質シルトに変化するところがあり、この変化点付近が海と川(後背湿地)の接点付近と考えることができます。

沖積海成層の分布域北限付近までが縄文海進クライマックス期の海面であったと考えることができます。
従って、ボーリングデータという客観的証拠から縄文海進海面分布を把握することができたことになります。

見やすい平面図で示すと次のようになります。

戸神川谷津の縄文海進クライマックス期の海面分布(支谷津は表現略)基図旧版2万5千分の1地形図

戸神川谷津の縄文海進クライマックス期の海面分布(支谷津は表現略)基図標準地図(国土地理院)

簡易的方法で推定したもの(赤丸…10m等高線)よりも谷津の奥深くまで海面分布があったことがわかります。
西根遺跡の北端から約1.3㎞先まで谷津深く細長い海面が分布していました。

西根遺跡検討のための基盤となる自然地理的知識を得ることができました。